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喬太郎、花緑二人会@青山劇場 [落語]

ミュージカルを掛ける小屋で落語会を催す。
だからといって特別に喬太郎師匠が オペレッタなのか
ミュージカルなのか判らない替え歌交じりに
『井戸の茶碗』を演じた訳ではない。
当代人気№1に躍り出た狂太郎、いや喬太郎師匠であるが
高座を荒らすという揶揄も聞こえるのは致し方ない。
特に二人会なんぞとなると 共演者は サラブレッドの花緑師匠でさえ
鷹揚さを失う始末であった。

漱石が『三四郎』で下戸なのに酔漢演じて見事だった当代の小さんを
絶賛するくだりがある。花緑師匠とは血縁はないが 血縁のある方の師匠であり
これ見よがしに あざとくなく演じる 描写力の芸風が
花緑と喬太郎の一門の上風であるそうだ。現代の小三治師匠の芸が漱石をして
同じ時代に生まれて仕合せと小説中に書かせたのだろうか?

喬太郎師匠の芸は あざとい と見るか?又は 志ん朝師匠が 先代の三平師匠の
テレビ向きの「自由な芸風」にあたるのか?
はたまた落語が矢鱈に巧い平成の三平と言うべきなのか

そんなこたぁ どーでもいい。
爆笑の渦が この日青山劇場を 一人の肥満体の五十男によって揺れ動かされてしまったのだから。
私は久しぶりで 笑いすぎて呼吸困難に陥った。
此処まで笑わされて文句をいう奴は 根性が捻じ曲がっているだけのことだ。
落語など観ないがいい。
そして 喬太郎師匠の喬の字は狂の字に違えても差し支えない。
それほど圧倒的なファルスを引き起こす芸を彼は持ってしまったらしい。

「あーたがたは 我々に一体何をお望みなのか」
巨体をわざと爺むさく矮小に背を曲げてすまなそうにしながら高座に上がると
開口一番喬太郎師匠は呟く。青山劇場ってのは『アニー』なんてのが掛かる劇場ですがなで始まる
哄笑のマクラが 唐突に古典落語の『井戸の茶碗』に入っていく。
人のいい屑屋が 武士と浪人の間を使い走りでクタクタになるのが
オチというか見せ所の噺なのだが 『らくだ』だとそのクタクタが
最後の最後に酒乱の本性に打って変わって大逆転という梃子の原理が働くけれど
『井戸の茶碗』は もののふの心意気が お伽噺なるので
屑屋のヘトヘト具合を押し過ぎると 後味が悪くなるという算段を
喬太郎師匠はきちんと弁えて はしょり具合を見せる。
それでも持ち時間を20分超えさせたのは 面白すぎるマクラの長さと
どうでもいいようなところで 替え歌オペレッタを次々やって
観客が両手を挙げて拍手するほど熱狂させてしまったからだ。
この恐るべき事態?の只中に立ち会えたのを仕合せと言わずしてなんという!

にしてもサラブレッドは馬で噺家でも神経質らしい。

鷹揚に振る舞わなくてはと思えば思うほど花緑師匠が キリキリしていた。
そりゃあサラブレッドだから劇場側の時間延長に対するクレームなんてのも
胃を痛くするんだろうけれど どうでもいいや そんなこと!
客が日頃のウサを晴らすに存分な哄笑を得たのだ 落語家らしくケツでも捲るさね。
といって花緑が下手だったわけではない。
御爺さんの小さんよりも 私はこの人の声や 上下切りの丁寧さは巧いと思う。
あの漱石・伝説の小さん師匠は 正直な心を大切に噺をおやなさい と訓導したというから その地道を余り神経質にならずに鷹揚に今まで通りに進んでほしい。
小三治師匠というのが 正にその地道を王道にして柳家一門に燦然と輝いている。

とはいえ小三治師匠と同門の甥っ子弟子にあたる喬太郎師匠の二人会なんてのが
もしも 万が一あったら 見物だ。
マクラ自慢の先輩にどう立ち向かうかね 狂の字キョンキョンは・・・。

Parco劇場で独演会を喬太郎師匠でやってほしい。
二人会の相手がますますいなくなるから
いっそそうなるのかもしれない。志の輔師匠も喬太郎師匠との二人会なんて厭だよと
言うたら シノクドイウナシノスケと私は怒る。
喬の字の狂気の驚喜で踏み荒らされたParco劇場で さあてどう出る志の輔は!
なんてのもやじ馬根性丸出しで 男子たる者は観たいわけです。
最強なのは小三治VS志の輔VS喬太郎 この三人だけで激突なんてのを
末広亭とかで・・・・やるわけないものね。


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落語よりラジオドラマかなぁ [落語]

母曰く、「『双なり天女』で 夏の花火に羽織は 暑いわよ」
そうね。じゃあ花見かな。それより 落語台本としては
登場人物の数が 多すぎる。という悩みは 書いている時から
あるわけです。だいたい3~4人ですね。落語は 通常。
ラジオドラマとしたら まぁ 問題は 無いと思うンであります。
以下 妄想として 書きます。ラジオドラマとしての
声の出演者のイメージキャスト 全く 妄想ですけどね。

● 秀次・・・・小林薫さんor山口晃史さん
● おまさ・・・戸田恵子さんor室井滋さん
● 札差し・大筒屋主・・・小沢昭一さん
● 料理茶屋初花女将・・・『サザエさん』のサザエさんの方。
● おかる観音・・・・美輪明宏さん
他に 『山菊』の兄貴分松次郎や大筒屋の手代は
よしなに・・・・という感じ。
そして落語の語り部分も 小沢昭一さんにやっていただく。
以上 単なる 僕の妄想的なイメージキャスティングですけどね。


落語台本『双なり天女』公開は以下です。 [落語]

まだ 第一稿  というより初稿・・・結構タイプミスが 未だ あるかもしれません。
しかも 7分割 しました。悲しいかな ブログは記事投稿順だから
その7が 一番上にきます。 まぁ しょうがないや。
しかも 横書きに機械的?に変えただけですから 
読みずらい かもしれません・・・ね。

http://ameblo.jp/eisyun-hiho/

☆このブログの左下 読んでいるブログ(RSS)に 
『ちょんまげ・アルザンスと私』 というのを クリックすれば
より お手軽に お目汚しいただけるかな・・っと思います。


双なり天女 解題として 先に・・・。 [落語]

『双なり天女』の原作は トルストイの民話『人は何で生きるか』。
何で生きるか というより 何によって生きることができているのか
という 方が 説話の締めとしては 正しいような気がする。
侊志ん師匠で初めて聞いた『文七元結』も
原案は 中国の民話だそうだ。それを円朝が 江戸噺に書き換えた。
川口松太郎が外国映画を 『鶴八 鶴次郎』に書き換え
それを 成瀬巳喜男が 見事な映画にしているけれど
さぁて 僕の 『双なり天女』は・・・・。
              ※
このトルストイの民話を 幼い頃から 耳・たこになるくらい
語り聞かせてくれたのは 父である。
小学校の高学年になって 本屋で 岩波文庫の棚の前へ
連れて行かれて 「岩波文庫デビュー」として
買ってくれたのも トルストイの『人は何で生きるか』だった。
倅の僕が 四十を過ぎても 結婚はしないし、
安定したサラリーマン生活を 打っ棄るしで
我が父親は 鬱状態から 脱け出せないでいる。
その父のために 挑戦してみた。 それが 本音である。
改めて 思う。この話は 天命庵でも 解き明かし
春日大社の葉室宮司さんの神道祝詞解説にも 在る
『神なる 宇宙と大自然の造化の妙なる運行に
心を 開き 一体化せよ。 取り越し苦労 持ち越し苦労
余計な心配 余計な期待で 心を閉じるな
それこそが 人間の罪 咎(とが)である』
『理屈たれずに まずは  神なる存在に もたれ かかれ』 
そして 『神たる 造化の妙なる運行が示す
実相に 生かされている 活かされている 愛を 見出せ』
以上の 哲学?に僕は ずーっと 幼い頃から 導かれ
長い長い 曲がりくねった 道を 歩き続けているのだと。
それは 遺伝子構造と同じ 二重らせん構造だ。
思考と感情の ボディナイズ・・・・。
なるようになる。いや 今までもそうだったように これからも
そうなるべくように なっていくだろう。
しかし 最早 自分の 心を 創造していく という努力を
無頓着にしていくわけには いかない。
はっきりとした 道筋を 示されているのだから。
『自分にとって都合の良いことだけが ラッキーなのではない。
不都合なことも ラッキーなのだ。
自分を取り巻く全てが 自分なのだから。』
これは 昨日の天命庵 おやさまの おしえである。
僕流に 言えば 以下の如 。
外界から浸透してくる造化の妙と 我がうちなる造化の妙が
浸透しあう 状態を 我が 心 にすることが
死ぬために生きる無常を喜ぶこと。 生の意味を噛み締めて
堪能させて いただこう。僕にとって人生とは そういうものだ。
So it goes ........Hi Ho! ハイホー!  


志ん朝師匠 [落語]

志ん朝師匠ってシトは どーも うますぎる。
名人ってのは どーも ありがたすぎる。はぁ~っと 溜息ばかりぃつくね。
どーも。何ね 今、志ん朝師匠の高座の速記本を 読んでいる。
ロシア民話の『人は何で生きるか』をお江戸の噺に書き換えるというためにね。
落語の台本なんて書いたこたぁ無いンだ。でも かなり 頭ン中で 絵が出来てきたし
あの名調子を 思い出しながら 読んでいた。 高座収録のCDは聴かないつもりでいたが
やっぱり 聴いちゃったぁ。 『柳田格之進』という噺は 結構 無理があるが
こう 文字面で 追っているってーと どうも モヤモヤしてくる。
うう っと してきて 遂 本屋で そのCDを見ちゃうってーと
いけませんな。我慢などできるわけがない。
『文七元結』も 元ネタが 中国の古説話ってーから 露西亜もアリだぁと
膝を打ったけどね。 どーも 悔しい。なんで 今 いねぇーんだよと。
神田の蕎麦屋で もりそば頼んで 七味ちょっと振って たぐってるってーと
悔しいから尚更 無謀な試みを したくなっちまう。胸のすくような江戸弁が
懐かしいやら 勿体無いやら・・・・。ハイホー!てやんでぇ


ロシア民話で新作落語? [落語]


トルストイの民話集『人は何で生きるか』というのがございます。これを
お江戸の片隅の物語に致します。民話は 天使の噺ですが
日本ですから 天女に致しますが さてはて 原作では 靴屋の
オヤジが出遭う。江戸時代に靴屋は ございません。
しかしですね。この靴屋ってのが ミソでして・・・。
今日は 両国の江戸博物館に 行って 図書室で 江戸商売図絵など
読み漁り ふむふむ 靴屋でなくて こうしよう と。名案が浮かんだ。
上記写真は 江戸博物館常設展で江戸の職人(指物師)の姿を
撮って参りました。清澄白河の深川江戸資料館や 森下の芭蕉記念館
などにも足を運んでみましょうか。 森下には『京金』という蕎麦やがある。
蕎麦は 抜群にうまい。しかし 蕎麦屋なのに禁煙だ。蕎麦の香りとか
珈琲の香りが煙草で損なわれる という店主を私は 尊敬できない。
客の健康を思い遣りすぎかなぁ?蕎麦の香りをきちんと愉しむとしたら
つけ汁は 水じゃないと 判らないはずだけどね。
両国の江戸博物館近くには 『天亀』という天麩羅屋が ある。
此処の 天麩羅は 子供の頃から慣れ親しんでいて あきない。


瀬をはやみ~逢はむとぞ思ふ [落語]

『崇徳院』は 志ん朝が 上方落語を江戸に置き換えて演目にしたかもしれない。
偶々出遭った金持ちの一人息子と一人娘、女は 男に 崇徳院の上の句を料紙に認め
男に手渡す、一人息子は 下の句を察して 恋わずらいで寝込む始末。心配した親ばかで、
長屋の熊さんを 呼び出し、百人一首の崇徳院の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」という歌だけをたよりに 江戸市中を訪ね歩けと 急かす。褒美に三軒長屋を丸々くれてやる。
そう云われて 目の色変わった熊公の欲と道連れの四苦八苦が 演じる落語家の腕の見せ所。
オチは 欲と道連れだったのは 熊公だけでなく 娘の方でも 大工の棟梁が駆り出され
ナントカ 広いお江戸の浮世床でパッタリ出遭って 末に逢はむとぞ思ふ!と男と男が掻き抱きあう。
侊志ん師匠は 元々品の良い語り口調だから 時間が もっと取れたら もっと良かっただろうな。
さて。 「瀬をはやみ・・」の詩は つまり「運命の男と運命の女」の意だ。
『繭の時間』という僕の小説も まさに それだ。岩に邪魔されようが 滝の濁流に巻き込まれようが
運命の男と女は いつかなるようになる。ペリーコモの曲でエルビスプレスリーが歌った
『Let it be me』もまさに崇徳院の詩と同じように川がやがて海で一つになるようにあんたと私は
なんだかんだといって なるようになっちまうよ という歌詞である。
そんな 感想を抱きながら 帰宅した。
ところで、話は全く変わってしまうが 深夜 テレビを観ていて吃驚した。
国営放送の『トップランナー』に偶然チャンネルが 合った。クッキングアーティストである
GOMAの3人娘たちであった。 おや まぁ! 僕が ミスタードーナツの広告仕事をしている時に
僕の兄弟子のようなNさんという方と一緒だった。3人娘のお一方の父上である。
さぞかし Nさんお喜びだろう と うす寒い春の宵に少し心が温まった。
そして そのNさんのご息女らしき方が「 人との出会いによって
自分達が 面白いと思ってやっていたことが 次から次へと展開を呼び寄せた不可思議」を
淡々と語っていた。そうだね。同感である。 僕も20代の頃、全くそうだった。目の色変えて
有名になりたいなんて 思ってもいなかった。ただ 好きな映画のことを 夢中で
自分が面白いと思うことを信じて疑わずに 没頭していた。そうしてると次から次へと
人が 寄ってきて 『ビリー☆ザ☆キッド~』なんて出来たわけだしね。
僕の『テイル・スープ』もいい歳した独身オヤジが そうして書いてはみたけれど
やっぱり よる年波って奴ですか 純粋な心ってのに戻れていないのかもしれませんな。
オイラなんぞ 汚れちまっていて 欲と道連れで ありんす。
まだ若き20代の青年諸氏(男女含めて)よ
ニートだってなんだっていいけど、 純粋におやんなさいよ。
純粋になる心ってのも 若いうちだぜ! 自分は面白くないけど、世間がこうだから
こうやったら当るはず!なんてのは 不純なんだから。自分が面白くもなんとも無いモノでも
世間が喜ぶはずだから 厭だけど 当て込んでやったぜ なんつー慇懃無礼な志では
折角の若さが 台無しでは ないか!ある意味 『もったいない』とオッサンは思うよ。
さてさて。
私は 天命庵の『順天』というおしえにも 通じるなぁ と一人感慨し、悦に入る。
なるほどなぁ と  全ては偶然の衣を纏った 必然なんだな と。


今夜は 侊志ん師匠の一席 [落語]

毎月第4木曜日は 四谷にあるライブハウス・コタンで
構成作家の奥山侊伸さん(立川侊志ん師匠)の落語を
夜 うかがいに行く。2月は『繭の時間』が佳境に入っていて
体をパソコンの前から動かすことが できなかった。
奥山さんとは 実は CX『夜は恋人』という深夜番組の
アシスタントディレクター時代にお仕事をしたことがある。
奥山さんのご記憶には 無いだろう。
この『夜は恋人』という番組は 後に『オールナイト・フジ』に
コンセプトをそっくりCXにパクられる。もしかするとパイロット版として
テレコムジャパンは 制作していたのかもしれないが。
まぁ 今流行りの大食いだの B級グルメだの 
ありとあらゆる タイアップを掻き集め 番組化したもんだ。
そんな日々も 懐かしい。「日本の社長のお風呂」なんていう
恐ろしい企画は プロデューサーの水原さんのアイデアか
それこそ奥山さんか 沢口さんのアイデアだったろう。
麻布自動車の社長のご自宅は 天現寺と恵比寿?の境界に在って
広大なお庭の此処からが渋谷区でこっちが目黒区とか
聞いて ゲンナリした記憶が鮮明に残っている。
総檜のお風呂場で 女子大生モデルのレポーターにコメントを
その場で考えて伝える、ぶっつけ本番演出を
入社して1年目の僕がしていたんだから 安上がり極まりない。
渋谷のビッグアップルというセンター街の入り口辺りにあった
ディスコでスタジオMC部分の収録をしていた。
当初は タモリの発掘者の中村誠一さん(サックス奏者!)が司会だったなぁ。
1年先輩の細田さんやチーコメこと植村和世さんは 今頃どうしているかしらん?
日テレの金曜洋画劇場のラストに必ず構成・新貝典子という名前がある。
この新貝さんってあのラジオ制作部の色が白くて細くて、眼鏡かけて
頭よさそうな あの新貝さんなのかなぁ?と 細田さんか植村さんに
いつか訊いてみようと思っているウチに 僕も48歳になろうとしている。

★今晩の落語については 明日 記事にあげませう。
侊志ん師匠の落語は 品がいい。文七元結がお初だった。
抜け雀も 僕は好きだ。今の正蔵も こっそりコタンに来て
ちゃんと立川流も勉強した方がいい。侊志ん師匠のような語り口は
年齢を重ね、人生の土壇場を遣りぬけてこないと滲み出てはこないけれどね。
小朝だって まだまだ 一頃の志ん朝と同じ 臭みが残る。
今の林家正蔵が 祖父の正蔵の 地味だが滋味ある と称される
芸風に なれるとは 想像もできない。
彼の母方の祖父も 釣竿づくりの名人で高名だった。
血筋は 完璧である。勉強の仕方が 悪いのか 頭が・・・。
まぁ いいや 遺伝子だけでもなんとかなるかもしれない。
気長にやるさ。落語家は結局 年年歳歳 磨いてなんぼの芸だからして。
釣竿名人の祖父の何代か前を 長谷川伸が 小説に書いている。
その小説の末尾に 当の名人にも サラリと触れている。
現・正蔵よ 長谷川伸全集ぐらい 君の親父三平師匠ならその
書庫に所蔵しておられるだろうから お勉強すべしだよ。
長谷川伸は 落語でも小説の勉強を習得したんだから。


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