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坂の上の雲が 雨雲になる時 [雑感]

司馬遼太郎が『坂の上の雲』を書いたのはご自身の第二次大戦に一兵卒として従軍した際に

日本帝国陸軍並び海軍が どうしてこの愚かしい戦争を仕出かしたのか

又同時に 何故 自分を含めた日本国民が この愚かしい悲劇にズルズルと堕ちてしまったかを 

解明するためのオデッセイア(真実を求める詩人の旅路)を試みんがために 小説家になったから・・・でありましょう。

『坂の上の雲』は 日露戦争の外伝としても読めます。極めて優れた稗史と云ってもよろしいでしょうか?

伊予松山藩という 明治維新において官軍側でも幕府側でも活躍した人物を輩出しなかった地から

日露戦争で 陸海軍で極めて重要な軍人としてその責務を全うする秋山兄弟は とても稀有な存在ですが稗史として 

この司馬史観の土台にもなる小説が世に出るまで多くの日本人には 耳なじみすらなかったというのも興味深い事実です。

あの坂本竜馬ですら 『竜馬がゆく』が出るまで土佐出身者ぐらいしか 記憶に留めていなかった。

竜馬の稗史は秋山兄弟よりは 流布していたでしょうけれども歴史上の人物として語られることは なかったそうです。

又 宮尾登美子氏の『篤姫』がなければ 竜馬の真の盟友としての小松帯刀も正しく日本民族に記憶されず仕舞いだったかも。小説家の役割というのはそういうジャナーリスティックな面も有るのでありましょう。

さて。その『坂の上の雲』がドラマで始まった同時期にNHKが 海軍参謀たちの先の大戦における反省会収録テープを基にした番組を 12月7日にオンエアしていました。

『日米開戦を語る 海軍はなぜ過ったのか~400時間の証言より~』

出演者は 半藤一利氏 澤地久枝氏 戸高一成氏。今夏オンエアされた 

海軍反省会収録テープを再構成した連続番組も衝撃的でした。その内容は 戸高氏によって書籍としてまとめられ既に出版されています。

 「しかし この将校さんというかもっと偉い方たちだけど戦争の実戦経験は 全く無い 所謂 ペーパーテスト上の秀才たちばかりでしょ?」と女流作家氏は 思わず声を上げてしまう。

「そうですね。余りにも 純粋培養してしまうと 却ってこういう莫迦なことを平気で口走るんでしょう。

実戦での生身の人間の思考や感情を捨象しすぎてまるでモノ扱いをしてしまう。

同じ臣民である同胞という意識は文字面でしかない」

「自分は天皇陛下の忠実かつ有能な臣民であるという驕りしか持てないのね」いやはや 手厳しい・・・。

が 御尤もなご意見であり 小気味よい。その体質は 現在も国家上級公務員諸氏の精神構造に受け継がれています。

あの諸悪の根源 キャリア制度なんつーのも 明治の富国強兵路線の遺物でしょう。 

海軍は 戦後暫く経って まだしもこのような内輪ながら反省会をし、結局その収録テープを後世に遺したから 良かったもののもっと 罪深き陸軍は せいぜい瀬下隆三をモデルにした『不毛地帯』があるぐらいで 反省なんかありゃしない。

反省なきまま防衛省 自衛隊に 負け戦をした体質を受け継がせているのだと思うと ゾッとしますな。

そしてニホンの経済成長は 概ね 反省なき日本帝国陸海軍の組織構造を会社組織に組み込んでおります。

アメリカ合衆国の罠に嵌って 粉砕された『日本株式会社』と『国民総中流意識』による 

資本論的高度に発達した資本主義=共産主義体制は 壊滅されましたが

反省なき帝国陸海軍の精神構造は 本来マネーゲイム業種にしか馴染みようのない成果主義とか実力主義の

美名に粉飾された(現在じわじわと固定化されつつある)格差社会傾向において 

今 再び猛威を奮っている・・・今夏のオンエアに対する視聴者からの予想外に大きな反響は 

上記した現代における組織の問題とシンクロしたからもしれません。 

開戦前夜に海軍には 首相にもなる米内光政、最高司令官にもなる山本五十六、そして作戦本部長の井上茂美という

傑出した軍人が存在し彼らは揃って日米開戦には反対したのに 

日露戦争従軍経験者たる伏見宮や永井修身を軍令部長に押上げ奉り 軍令部という組織が 

海軍そのものよりも重要な組織にしてしまった恐ろしい事実を 海軍反省会テープで確認した 出演者たちは唖然とする。

たとえば 半島氏は 

「日本人は 今でも 『仲良しクラブ』ですよ。組織を維持するには 突出した才能は和を乱すから 弾き出す。

それが 組織のモラルだと信じる。それは 嫉妬心でしかないんだけど 

仲良しクラブでは嫉妬心で共鳴し合いその醜い共鳴、共感を なんと組織を維持する為のモラルに仕立て上げるんだな。 

怖い習性ですよ。組織自体を崇め奉る妙な病癖を 意識的に治さないと

我々は 今後 再びどんな過ちを 起こすか 分からない」

現在 会社組織にあって概ね『仲良しクラブ』と『排除の倫理』という病癖は 成果主義なる公明正大な人事評価とは 

裏腹にうごめき跳梁跋扈しその不気味な病症は 憐れにも 子供たちの世界にも伝染しているのは 

皆様も ご案内のとおりでございます。

子は親の鏡と 申します。 子供は大人の愚劣を演じてみせるとも。

自分は会社で仲良しクラブに怯え 排除の倫理に従っているのに自分の子供の周辺に起こるいじめの問題に対して

解決、活路を諭すのは 無理だろう。せめて抱き合ってともに泣くしか・・・・ないのだろうか?

いや 抱き合って泣いているだけでは 我々は 又ズルズルと堕ちるところまで堕ちるだろう。

せめて抱き合って泣くのではなく 真剣にわが子の周辺に起こった排除の倫理に対する解決法を 

自分の頭で考え 見出す努力を 子供の目線に立って尽くすことから はじまるのでは なかろうか・・・。

焦土から立ち上がった我々の遺伝子は 聖徳太子が遺した『十七条の憲法』を正しく理解し、日常において実践することで

本当の意味において 「和を以て貴し 」 を為す時・・なのかもしれません。

大いに和する魂、大和魂は 赤信号皆でわたれば怖くない で いいのでしょうか?

嫉妬を組織維持のモラル、大儀にまで変容させてしまうクセを

自らの克己心を以って矯正する賢さなど 我々は持たなくてもよいのでありましょうか?

どのように自己の感情を教育していけばよいのか・・・。

                     ※

昭和の日本帝国陸海軍が 単なる出世の道具となり果て、軍需産業の煽てに自惚れエリート意識で凝り固まった

薄気味悪いナルシストぞろいがひしめき合い 秋山兄弟のような実戦経験のない腰抜けばかりが 

軍の重要ポストに着いてしまった悲劇は二二六のようなテロやクーデターといった暴力では 覆せなかったどころか

火に油を、いや爆薬を投じてしまったようなものだった。そして 憲兵あがりの東条率いる翼賛会は密告制度を土台とした情報操作による恐怖政治の様相を明らかにし、ますます 人々の嫉妬心を巧妙に操り民衆を痴呆化したのでありましょう。 

ここで 聖徳太子の『十七条の憲法』から 十四条と一条を併記引用致します。上段が 読み下し文 下段は 私の意訳ぎみの現代文です。 

十四に曰わく、群臣百寮、嫉妬(しっと)あることなかれ。われすでに人を嫉(ねた)めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患(わずらい)その極(きわまり)を知らず。ゆえに、智()おのれに勝(まさ)るときは則ち悦(よろこ)ばず、才おのれに優(まさ)るときは則ち嫉妬(ねた)む。ここをもって、五百(いおとせ)にしていまし賢に遇うとも、千載(せんざい)にしてもってひとりの聖(ひじり)を待つこと難(かた)し。それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん。 

十四には、オオキミ(天皇)に仕える ありとあらゆる上位下級を問わず、官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。

自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬という病は果てしなく蔓延するものだ。

それゆえに、自分より才智に優れた者が現れたことを悦べない、そればかりか 

才能が自分よりまさっていると思えば嫉妬という醜い感情の炎を燃やす。

そんな人格形成の努力を怠った者では五百年たっても賢者が現れることはできず、

千年に1人の聖人の出現を期待すらできない!

賢く、私欲無く聖なるほどの人格者が 人材として我が国に現れないとしたらどのようにして 一国を治められるというのだ!

(だから 嫉妬という醜い感情を自己管理できるように皆、努力を尽くしなさい)  

一に曰()わく、和を以()って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)(やわら)ぎ下(しも)(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 

一には、和の心ほど貴重なるものはない・・という共通認識を持ちなさい。感情にまかせた言動を慎むことを基本心得として皆腹に据えなさい。

まだ人格形成も不完全で才智に長けていない者ほど 本当の自信がないからおのずと徒党を組みたがる。 

それにつけても悟達の人格者など稀である。

人格ができていないということは 君主の本意を汲み取らず、

自分本位の解釈をして君主の本意に叛いてしまっていることさえ気付かない。(=不順)

何かと近隣の者たちと諍いを起こして、論議を尽くしているふりをする。

だからこそ 上に立つ者は和やかな心を、部下たる者は 睦まじくする心を 其々意志的に自己操縦、自己管理する努力をして物事を順序よく論理的に話し合うように上も下も心を尽くすならば必ずや 道理に適うようになり、

どんな難題・難局面も解決成就するはずだ。 

最後に 澤地さんが 軍令部の長たちを評するに 

「組織って 便利なモノなのね。組織というモノに委ねてしまって 自分の頭で自分の知力を駆使して考えるという

あたりまえの努力まで放棄して平気になっちゃうのね・・・この軍令部の長たるお二方は ある意味被害者でしょうけど

やはり 駄目よね。組織の長たる者からして自分の頭で考える事を放棄して軍令部という組織に委ねきったんだもの」

この印象は 決して過去のこの一件にだけあてはまるものではなかろう。

上記のような悲劇的な状況は 現在の日本のいたるところでも見受けられる景色かもしれない。

いや 日本だけではない。アルカイダなどの自爆テロをして聖戦と謳い上げる手合いたちが率いる組織においては 

宗教的呪縛と麻薬による幻影によって上記のような悲惨な状況を 美しい光景に倒錯させて無垢なる若者を 操っているだろう。

そして成果主義や実力主義といった制度を嫉妬を逆手に取って頗る賢い制度だと信じている資本主義者は多い。

いわく競争原理至上主義。

皆でお手手つないで一等賞は でくのぼうを育成するのに役立つが嫉妬心を克己するために努力する機会をも失わせる。

だが 競争原理至上主義者によってパブロフの犬のごとく扱われ、

反射神経をダイレクトに操縦される犬同様に嫉妬心を徒に煽られて突きつけられる競争原理を寧ろ悦んで受け入れるのは 

いかにも 顛倒している。人間的でない・・・いや 人間を動物領域に意図的に貶めてそれを人間的と決め付ける自虐的なだけのリアリストや唯物論者のグロテスクを嗜好する思考回路に堕する振る舞いにすぎないように私は 感じる。

そういう思考回路に私はついていけない。嫌悪感すら覚えてしまう。 極私的な 感想かもしれませんが。

それは それとして現代の十代から三十代までの方々は

「もし 碧い天に 白く輝く一塊の雲があればただそれのみを目掛けて坂を駆け上るだけだ」

この言葉を胸中に託して『坂の上の雲』の三人の主人公のように単純明快を旨としてご自分の大切な人生を 

是非 是非 喜々として生き抜いてください。

私の祖母も明治の女ですけどまさに 碧い天に認めた一塊の雲目掛けて一気に坂を上りつめようと勇んで生きた者でした。

あの遺伝子のかけらが 私にもどこかに紛れ込んでいるはず・・・なんですけどねぇ

私は 祖母のように 苦境の日日に「ここが わが人生の見せ場ぞ」なんて日記に書き付けて 

自分を鼓舞するなんて芸当はしてこなかったし これからも できないんじゃないかと思う。


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