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たかがドラマじゃないんじゃないか? [試論]

ある者は 「ガッキーの踊り方はオフビートだ」と言い
それを受けて 「最早 彼女は フレッド・アステアと同じで
一拍ずらしながら 音楽の最高潮を抱き寄せてしまう」
と 私と同じ還暦まであと数年という男達にまで
渋谷のイタ飯屋でおだをあげさせる。
私は遂に 
日本でショートボブが唯一許される女優・新垣結衣が
一度 ジャネット・リンに到達したが なんのことはない
初恋の中村好美ちゃんじゃないか と思い当たって
言葉を失う。 おいおい 人生ってなんなんだよ・・・
なにせ 中村好美ちゃんがジャネット・リンに似ていたのではなく
ジャネット・リンが好美ちゃんに似ていたので
私の中学の同級生たちは ジャネット・リンのファンになったのだ。
そうか なんのことはない 俺は永遠の中二病じゃねーか
まさに中学二年生の時 一緒に学級委員をした美少女に
書き損じたラブレターを映画にしようとしたり 小説に書いているのか?

 座布団に顔を埋めて「バーカバーカヒラマサのバーカ
メンドクセーンダヨバーカ」と叫ぶ ガッキーは
インプロビゼーション爆裂である。つまりアドリブしまくりみくり状態。
その後に続く 嫉妬露わを隠さないいじらしさってのは
早大シネ研出身のモノとしては
ホークスを映画の父と信じる者としては 『リオ・ブラボー』
西部劇なのに 踊り子のアンジー・ディキンソンが 
ジョン・ウェインに向かって 
「この大男の鈍感野郎 目の前にいる女の気持ちも判らない
デクノボーのくせに!」と怒りと半泣き状態でなじる
スクリューボール・シーンを思い出す。
しかも この踊り子は臨時保安官の絶体絶命状態を物陰から
ライフルを投げ渡して救うという超カッコイイシーンで再登場する。
そしてこの二人は
目と目でキス以上のことをするのであるが
これを我らが教師たる蓮實重彦先生は 
「男女の仲が共犯関係となる時
最もセクシーになることを描いた」とご指摘くださった。
思えば 逃げ恥というドラマの契約結婚とは 
共犯関係を描いているのだ。
アダルトビデオをセクシーだと思ってみているのは誤解だということだ。
そのことを感情教育しただけでも この火曜日夜10時に放映された
ドラマは 単に『半沢直樹』並みに高視聴率だ というよりも
存在意義は 大きい。『半沢』は所詮水戸黄門だ。勧善懲悪。
 
さらに 私は愕然とした。

「イマジネーションは現実を変える力があります」
「私のしょうもない妄想もヒラマサさんの手にかかれば
現実を変えるほど・・・ 好きと言われなくっても いいかしら」

イマジネーションは 現実を変えます。
その事を もっと我々は 丁寧に自覚しなくてはならない。
造化の妙とは 言語体系といいつつ それは画像でもある。
但し デジタル空間でさえ 画像は プログラミング言語の
言語体系的な 振る舞いによって成立している。
だからこそ イマジネーションは 現実を変える力そのものなのだ。

 妄想を 罪悪感から解放する事の方が 大切だと言える。
それでこそ 自覚的な造化の妙という言語体系の放出器官への
安全なpath(経路)が 我々に用意されているはずだ。

『逃げ恥』は たかがドラマじゃないんじゃないかの領域に
入り込んでいるかもしれない・・・。
となると 我々はラッキーかも。『MIB3』の五次元異星人グリフィンが
そう呟いているだろう。


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今すぐにでも我が国が為すべきロボット革命について [試論]

フクシマ原発事故終息へ向けて 果たしてアシモのような二足歩行の人工知能型開発を優先させることが 急務なのだろうか?
鉄腕アトムでなく、ガンダムなんじゃないのかしら?

宇宙空間における放射能放射線を遮断する宇宙服が既にあり
一方で介護用ロボットアームは開発されている。
更なる放射能放射線に対する遮断性能を上げるにしても軽量化が必要だ。
勿論ロボットアームも宇宙服(防護服)重量を緩和するのが
目的だから小型化と軽量化を追求しなくてはならない。
その手の研究の方が 人工知能よりも迅速な対応が可能ではなかろうか?
何しろ『より少ない物質でより大きな成果を達成できるという文明潮流』は
1980年にバックミンスター・フラーによって明示されている。
彼は スリーマイル島事故に対応する発明を米国政府にしているはずだ。
ただ それを米国政府が採用したかどうかは 私は知らないが…。

大問題は 誰がモビルスーツを着用するかである。そして緊急事態時に
迅速に退避可能な小型の乗り物、乃至退避カプセル帯同を設計する
必要もあるだろう。着用し 退避訓練を積んでいかねばならない。
又 人工知能で編隊を組んで飛行する超小型のロボット飛行機も既に存在する。
その超小型ロボット飛行機による事故現場偵察も 我が国の技術で迅速に
対応可能ではないだろうか。
少なくとも アシモ型とモビルスーツ型を我が国は現在同時に開発する必要があると
私は思う。

前者には 鉄腕アトムの理想が宿る一方でターミネーターの悪夢も伴う。
後者だって結局は 戦争紛争に悪用することは可能だ。
いずれにせよ 原発事故に全力で対応するということは
二者択一をしている時間が無いのではなかろうか?
直ぐにでもしなくてはならないアジェンダを解決する優先順位から
考えれば モビルスーツ型は既に雛型が出来上がっていても
決して早すぎはしない。


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それなりの寓話としての【造化の妙】 [試論]

我々は 五官による五識があり それを統合する(又は そうするはずの)六識というマインド(こころ)が 意志決定なりを下し、行動言動をし その反映に 五識が反応しの 繰り返しをする。その時 どんな間抜けなことを五識六識でしていようが それでも 我々には七識が潜在してくれている。 仏性とも 仏種とも 比喩される。一方で西洋医学では それを【ホメオスタシス】という目には見えないが確かに人間誰しもにも先天的の備わった 自然治癒力を統べるような機能と 私は同じだと思う。

七識を仏教(大乗、唯識論)ではマナ識とも呼ぶ。それを【魂】とも呼ぶだろう。七識には細い糸が着いているという。それは 八識である。西洋の精神医学で【共通無意識】と呼ぶ存在に繋がる(アクセスする)存在であり 誰しもが所有している。

七識、八識は どんな修行を意識的にしても どうにもならない。我々がこの天と地の間で過ごすかぎりにおいて 為すべきは ただコロコロと心を転がして 生まれつき借りているホメオスタシスを 磨くことだけだ。こころは コロコロ転がる故に心なり。我々は借りている肉体を以て 借りているホメオスタシスを傷つけず 磨く術を捜す。その磨き方を諭すのが【おしえ】=【お経】であり ナニナニ教の教えであろう。

中道を『極端な考え方行動をしない』とは 孔子は諭しただろうか? 中道とは『道に中る』であると説かなかったか?つまり その時々場面に最も道理叶う 適中する活路=道を行け ではなかったか? 【造化の妙】は 我々の内にホメオスタシスという呼び名でも存在している。釈尊が仏種とも教えてくださったのはそのことか?我々はどうか 無限の造化の妙の無限分の1として拙くも磨き果せて お還しするために 此処に参上仕ったのでは? 無限なるアラヤ識とは無限なる造化の妙の別の言い方にすぎぬのではないか? 自己中心という的外れなこころのコロコロが マナ識、ホメオスタシスを磨くのではなく 欠けさせたり 損なったりすると想像できまいか?

ましてや 他者を傷つけ他者のマナ識まで磨き損なわせたらば この世で裁きがあろうとなかろうと 裁かれるのは 道理だろうに。他者をいじめて悦ぶ心がするのは 自己を損なう行為であると思い知る 寓話に なるまいか? 時間の無駄遣いは 早々に止めて 自己を適中する道へと向かわせなければ マナ識ホメオスタシスに申し訳も立たぬ。 さぁ 火星と木星の間に存在する隕石 彗星浮遊群は 我々の住まわせてもらっている地球という星に対して どう思っているだろうか?増えるだけ増えて地球さん、君を損なうばかりの人類とやらを どうしますか?歳差運動を早めて駆除致しますか? ロシアの隕石をギリギリで空中爆破させたのは この地球のホメオスタシス機能が そうしたのだろうか?それとも このろくでなし揃いの人類を愛してくれる異星人だかが 本当に存在しているのだろうか? 

足らぬ足らぬは工夫が足らぬのではない。足らぬ足らぬは想像力だ。この地球という星と人類が 互いに愛し合える文明への 想像力が不足しすぎているのではあるまいか? イエス・キリストのたった一つの新しい契約は LOVE ONE ANOTHER 互いに愛し合え である。人間同士そうするのはマナ識磨きの心としても具合がよろしい。同時にこの言葉は 次に来るべき人類の文明は 地球と人類が 【互いに愛し合える】か否かへと 解釈できるかもしれない。


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宇宙船地球号という大和魂について [試論]

バックミンスター・フラーの『宇宙船地球号操縦マニュアル』という書物から
抜粋します。※ちくま文芸文庫版ならば123頁あたり※
『現在および将来失業中の人間に対して 研究と開発のために、
 いや ただ考えるだけでいいから 生涯に亘る奨励金を出せばよい。
 人は思い切って真実を考え
 生活の権利を失う恐れなしに その考えに従がって行動することが
 できなければならない。
 この心の奨励金を使って 人は科学的な探求や実験的なプロトタイプの
 開発を推し進め加速させることが許される。
 研究や開発の為に あるいは 偏らない思考のために
 たとえば 10万人の人間を雇えば そのうちの一人が
 新機軸を切り拓き 他の9万9千9十9人分の奨励金よりも
 大きな実りを引出してくれるかもしれない』

この文章を読んだ時に 私は大いに和する魂の基である
和を以て貴しとすの一条を思い出さずにいられなかった。
聖徳太子は 本当に有能な者の才質を見出し それを活かすために
まず嫉妬心と闘え!と解き明かしていく。個々がその克己に及んで
其々の得意を本当に有能なたった一人を活かす為に
最大限其々の持てる力を発揮すればよい、と。

勿論抜粋した文章だけを読めば 多くの人は「自分は理系じゃないから」と
拒絶反応を示すだろう。しかしこの書物(Operating manual for Spaceship EARTH)を読めば お分かりになるだろう。
しかも我が国は未曾有の大地震と大津波、そして原発事故を去年体験している。
我々の国だけの問題ではない 全人類の生き残りに関わる思考を究める事を
政治家や官僚にだけ恃んでいてはどうにもならないというもどかしさを感じているはずなのだから
新しい人類の文明とは何かを 自らの思考によって自ら思い描くべきであろう。
『宇宙船地球号操縦マニュアル』は1969年に米国で発表されている。その数年後に起こるスリーマイル島原発事故など既に織り込み済みの如く 原発は元より化石燃料に頼らなくとも風力 太陽光 波などの再生利用可能なエネルギーによってこの同じ宇宙船に乗り込む世界中の人類全てが 高い生活水準で生きて行ける可能性を実に鮮明にしかも合理的に語り明かしている!
希望という感情を教育してくれること請け合いだ。

 マクルーハンがフラーを「現代のレオナルドダヴィンチ」と評しているように
1969年に発表したこの書物でもコンピューターやインターネットによる
「より少ないモノでより多くを成し得る」原理原則によって人類文明の変化を
予測してもいる。レオナルドダヴィンチ同様、フラーも正統な教育を受けていない。
レオナルドは受けたくても受けられなかった家庭の事情があったが
フラーは一度ハーバードに入るけれど 「専門家ばか」にはなりたくないという信念を主張し放校され 復学したが やはり無理だと自主退学する始末だ。

 ジョン・レノンを平和ボケとかビートルズ成金の優雅な平和論と腐すのは
余り知能が高いとはいえない。おそらくジョンはフラーに触発されていたのだ。
そしてカート・ヴォネガットもこのバックミンスター・フラーという
奇妙なハーバード自主退学者をモデルにして『ローズウォーターさん あなたに神の御恵みを』や『ジェイル・バード』を書いているふしを私は見逃せないと思うのだ。
そしてヴォネガットのハネーに群がる蜂のようにマネーに群がる人間たちの習性について書かれた『God beless you! Mr.ROSEWATER』が フラーへのオマージュであると私が思い込むのは 上記ハネーに云々に符合する フラーの『クリティカル・パス』におけるプリセッションを説明する一文に「ハネーを目がけて何故蜂どもは
直角に花弁に図体を突っ込むか」それは「植物と蜂の染色体上の申し合わせ」
と解説している部分を読んだからである。
又 マネーとは 中央銀行と各銀行間における手形再割引の係数操作によって
捏造された経済指標の数値データでしかない という分析は
先週の土曜だったかNHKの『日本国債』という番組でも同様の説明をしていた。
IT企業のアンチャンが シナジー効果と口にしたり ロジスティックを経営学用語として
遣うのだが それらもフラーが1940年代に公言していた影響下にある。シナジーとは相乗効果ぐらいに遣うが
フラーはもっと大切な文明構築上の動体説明に使用している。ロジスティックは 兵站である。
戦争における兵器と兵員の調達 運搬 備蓄 活用戦術ぐらいで古くから使われているが
フラーは 軍人だったころ兵站分析部隊にいたのでロジスティックを再生エネルギーや
エコロジーがどのように実際的に可能であり可能にしていく方法論を語る際に戦場を例にして説明し、口癖のように用いる。面白いことにフラーの抜きん出た技量を一番高く買ったのは米国陸海軍であるのだが
フラーは 戦争ほどこの地球号を操縦するにあたって、エネルギーや資源を無駄遣いはないと指摘し
その無駄遣いをなくすためには 国家そのものを世界中から無くし
世界人類立法行政機関がひとつだけあればよい と 優れた唯物論者は述べる。
フラーは ひたすら「効率よくこの星からの恩恵を活用する術を確立したら
さぁて 宇宙全体における地球号の役割をそろそろ人類が宇宙から読み解き 
その役割を果たそうじゃないか」と呼びかけている。

最も優れた唯物論者は 数学物理学的仮説実験を基にして超物質的メタフィジカルなマインドという人間の人間たる由縁を発揮する能力にやがて飛翔する道筋=Critical Pathをも書き残してくれている。
前にも書いたように 最も優れた唯物論者(自然観察から原理を解読する者)は
天がける唯識論者になる。釈尊を教え(お経のこと)殊更 法華経は因果律を通して宇宙の中の人間世界を絢爛たるファンタジーのようにしながら解き明かしているのだがそれらをもっと具体的に記述できるようには 未だ私の学習は熟していない。

エラースプルモワ!とはこういう時に遣うんだろう・・・ 


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ジョン・ゴールトなんていらない! [試論]

フリーエネルギー装置を 米国人のジョン・ゴールトが発明した。
なんて事はフィクションであって 実際に在るべきではない。
如何に人類が壊滅的な打撃を自然から受けても
フリーエネルギー装置は 現在の人類の想念には「毒」になる。
しかもそれが 米国だろうが我が国の発明家によるものであっても
その装置を「地球と互いに愛し合う」目的があるにせよ
必ず利権を以て 争いや殺戮が起きるだけだ。

その結論を見出すために 私は『肩をすくめるアトラス』を
読むように導かれたのだろう。
そして 私は『リヴァース・ショット』という小説のおしまいに
眠れる預言者となった伊勢実時に その装置を
「思いやりの度合い」によって発電量が異なると言わせた理由と
その意味合いを明確にするために!

『灰色の肌を持つ異星人~グレイ・スキンかく語りき』とでも
題名すべきアドリブ小説をこのブログに書いたけれど
その中で 異星人が贈るフリーエネルギー装置を 人類が模倣して
大量生産できるように書いたが それは 間違いだったかもしれない。

やはり『リヴァース・ショット』に書いたように
愛という目に見えないエネルギーによって作動する装置にしなくては
人間は 悔い改めもせずただ経済至上主義を棄るなり改めるなりせず
却って想念の退化を招きかねない。人類が進化させなくてはならぬのは
想念である。思考と感情の力を思い知るという進化である。

フリーエネルギーとは「愛」でよいのだ。
目に見ない「思いやり」や「愛」に反応し それを電力に変換する装置を
人類が手に入れたとしても 産業界の電力を賄うことはできないという
制限が あるべきなのだ。
ハイエクの金融市場自由主義に 金融超過貸出の制限が予め論じてあっても
その制限を無視してリーマンショックとは何事だ・・・。
自由にも制限付きでなくては 道を簡単に踏み外す。自由は高くつく!
しかもその愚挙を経験則から学べないのは 莫迦でしかない。

現在の人類は 飽く迄 再生可能エネルギーを追究しなくてはならない。
もうこれ以上地球を掘削し 自分たちの欲望のためにだけ
地球という惑星を搾取する振る舞いは終焉させなくてはならない。
家庭用電力ならフリーエネルギー装置で賄える。
あたりまえの愛に溢れる家庭なら 又は個人ならその余剰電力を
電力会社に売れるかもしれない。だが産業用の発電には
儲け主義でない病院や養老院、養護施設以外には発電不能であるべきなのだ。
産業に関わる電力は 再生可能エネルギーで賄うべきだ。
日本はこんな狭い国土なのに 海岸線の長さは世界6位である。
つまり「波と潮流発電」が最も効率よく産業界の電力を供給するだろう。
風力や太陽発電は 日本向きではない。国土の表面積に比例する事を
鑑みれば明らかだ。
波と潮流による発電システムは 同時に津波や海底断層の探査システムにもなる。
浪間に浮かぶ発電装置が 同時に我が国土の弱点を補う事も為す方がよかろう。
そして太陽発電開発で国も企業も『蓄電システム』の研究は進んでいるはずだ。
寧ろ『蓄電システム』開発こそが国家&産業共同体が求める利潤を
産みだすと考えるべきだろう。
メタンハイグレードを掘削する?そんな事をして本当に大丈夫なのか?
そのメタンハイグレードが 地球の磁性磁場形成の基盤だったら
どうやって原発すら廃炉にできない科学レベルの人類が 失敗を埋め合わせられると
言えるのだろう? 
我が国が資源大国らしき振る舞いができるようになるとしたら
それは 前にも書いたけれど 藻・油田だけだろう。
瞬間氷河期が来たらお手上げだが ミニ氷河期は近い将来 やってくるだろう。
その節に備えて 藻・油田開発をした方が 無難じゃないか。
もしメタンハイグレードが人類に必要な物質だとしたら
それは おそらく たとえば富士山直下の活断層に注入して大地滑りリスクを
1000年なり100年なり延期する可能性だろう。その間に 地滑りで土砂災害を受ける
地域から住民の移住計画や新幹線の経路変更するなんて事に役立てるというのなら
フィクションだとしても受け入れ易いだろう。
無論 今のところ似非科学でしかない言質である。

それこそ 灰色の肌をした異星人でも現れて 
メタンハイグレードを手にした東大教授の頭を一発しばいて
「アホか ボケぇぇ こんな大切なもんを発電燃料にするんかい 
 ワレぇ 地軸がいきなり10度傾いたら誰が責任とんねん? 」
とテレビでやってくれたら さぞかし話は早いだろう。

現実と虚構がこの文章に織り込まれている。
だがジョン・ゴールトなどどの国にも出現すべきではないのだ。
フリーエネルギー装置は おとぎ話のように
我々人類の想念の進化に寄与すべき存在として 現れるべきなのである。
そして 世界中の原発を廃炉にする技術を果たして人類単独で
開発できるだろうか? つまり「異星人など架空のばか話」ではないのだ。
それが 宇宙の真実なのだ そういう想念の進化が
虚構でなく我々の目前で披瀝される時も おそらく近いだろうと
私は 感じている。いや 願わずにいられないだけなのかもしれない。

 大学時代、唯一真面目に予習復習をした
ハイエクのゼミは 私の脳内で滓のようにしか残っていない。
それを恥じだとは思えない。寧ろ なんでハイエクに…という
想いの方が強い。しかし ジョン・ゴールトなんかいらない!と
私が叫ぶべき者であることを自覚するには ハイエクの
リベラリズムの考え方を一番頭が柔軟な時に対峙しておくべきことだったのだと
『ハイエクとケインズ』なる書物を読みながら思い直してもいる。

☆ 今日は溝口健二の生誕114年だったのでミゾグチとフローベルの
  マダムボヴァリーの縦構図 そして 同小説の
  横構図を 急逝したギリシャのミゾグチ・アンゲロプスに
  解題する文章を書こうと思っていたが それは後日に。

そして 明日は久しぶりに早大シネ研の友人たち
(西山洋一監督と高橋洋監督)の
短篇映画を鑑賞しに夜の渋谷にくりだしますので
そちらの感想文の方が 早くに書くでしょう。


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エイセイアとして。 [試論]

私が今棲んでいるわび住いの南面するサッシ越しに
昨夜からスーパーフルムーンがまんまるとして覗き込んでいる。
今日 私は馬齢を重ねた。嬉しさよりもプレッシャーの方が重いのだが
『梁塵秘抄』
 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、
 遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
月が そう謡っているようだ。

いや大河ドラマ『平清盛』がこの謡曲を主旋律にしているからだ。
頗る視聴率の悪いドラマらしいが
私は このドラマの作り手達 プロデューサー ディレクター
そして藤本有紀というシナリオライターの意気に感動しているし
共鳴している。 見事だ。

 宋銭を持ち込み 貨幣経済を導入して 一挙に武家政治へ
パラダイムシフトした革命家・平清盛として
描き直す挑戦、そして清盛が 
日本における 異民族の血筋を持つという設定もしている。
この異民族とは ペルシャ人説とともに
ユダヤ人説とが まるで都市伝説のように平安末期から
蠢いているのを 蘇らせている。
その男を巡る 後白河帝という現代で云えばロック歌手から天皇になり
やがて複雑な巨魁になる若者や 
恋をキッカケに武士を棄て詩人に飛翔する
西行法師を配している。
恐るべき子供たち!彼らが其々に果たすあそびをせんとや生まれけむ
ドラマが 果たしてどんな感情教育をするか 私は大いに物見したい。

 浅田彰は20代で「ありうべき家族のカタチなんぞ ありはしない」
そう云って 最前線から逃走した。
小津はまるでありうべき家族のカタチがあるような気配を
美しく画と音で紡ぎながら その幻影が残酷であることを
そっと忍ばせて 疾走した。映画であそびまくった。
この世の無常に託された 人間とは何か?
この問題に個々が応えるのが 人生だという残酷さを
どう受け入れ どう受け流し 死ぬために生きるを
どのように全うするか 
あそびとは何か? 怠けることでないことは確かだ。
ただ 喰って寝て働く それがあそびか?
ささやかな趣味をあてがって 病み老い死ぬのが
あそびをせんとや生まれ来たと言えるのか?
喰って寝て働いて 種の保存をして 懸命に育てる
そのあそびは 生半可ではない。だが鳥獣はそのあそびに夢中だ。
疑念の余地もない。だから 答えは其々に任されている。
答えは自分出だし 正解は所詮自己満足でしかない。
残酷さとは そういうことである。
 
アルチュール・ランボーは37年の生涯において
殆ど旅と商取引で病み疲れる時間ばかりで後は
生まれつき霊眼を開示し十代半ばで完璧な詩を書き上げてしまい
その壮絶なエネルギーを持て余し 霊眼を閉じ病み疲れる為に
英語教師でお茶を濁す人生であそびを全うしようとしなかった。
自分の血を引く男の子を完璧に育てるあそびをいつしか失念した。

自分を苦しめるのでなく この苦痛さえもあそびだと
歓ぶのか 歓べるようになるのかならないのか

決着のつきようのない命題を馬齢を重ねる日に己に問うてみた。


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太陽が賦与する人類へのチャンス? [試論]

人工衛星『ひので』による太陽観察研究によれば
太陽の磁極変化が 1年早まり、その影響で
地球は寒冷期に入ったといえるそうだ。
それどころか 17世紀半ばから約80年続いた
ミニ氷河期に向かう可能性があるということだ。

原発事故で日本は電力供給が覚束ない。
いきなり再生可能エネルギーに原発分の電力は担えない。
そして 地震や津波は想定外でいつ起こるかわからない。
日本だけでなく 世界中至る所で。
愚かな者たちは火星移住計画を立てているようだが
残念だが グリード貪欲者を受け入れる惑星など
もうこの大宇宙には 一個だにない。
太陽光エネルギーは 案外期待できないかもしれない。
だからと言って化石燃料や地熱、海底ガスなど
これ以上地球を掘削する仕儀は イルカやクジラを捕獲する
よりも 人類として恥ずべき行為だという事を
これから 多くの民が 天災で思い知らされるのではなかろうか?

貪欲者の手にあるかもしれない「宇宙のフリーエネルギー発電機」が
各国の知恵者の元へ異星人が夢の中に立って教える
(私のようなエンジニアでない者の夢の中に立ってもらうのは困る!)
なんて事があってほしいものだが それはそれとして
オーランキトリウムの藻による油田があったりすべきだし
不起不耕の自然農法が きちんと行われる農政が日本に根付く事も大切だろう。
フリーエネルギー発電装置があっても 水田ではなく「藻」油田によって
人類は暖を取ることも これからのミニ氷河期において大切だろうし
我が国の稲作を自然農法に変更しても
水田を作る能力技術を棄ててしまっては勿体ないのだから その技術を
「藻」田にしてゆけばよいだろうと思う。

藻によって作られる油を燃料とすることでどれほど二酸化炭素が排出されるか
私は知らないのだが 寧ろ地球温暖化よりもミニ氷河期にあって
果たして問題になるのだろうか?勿論 多くの発動エネルギーは
無料なるフリーエネルギーで賄われるだろうが
藻による油を燃やすことで 地球と人間以外の全ての動植物にとっても
ミニ氷河期の地球の冷え込みを抑える余徳が在って 良いことになるかもしれない。

先のミニ氷河期において人類はヨーロッパで産業革命や階級闘争革命を興すことになる。
太陽活動が不活発になるから 暗く陰鬱なる時代が到来するだけではないらしい。
寧ろ 人間が自分の脳力を冷静に開発作用させるチャンスにもなるらしい。
先のミニ氷河期において 人類は未だ太陽活動に対する科学も幼稚だったし
科学技術自体も 地球を疎外する独善性に満ちていた。
しかしこれからの科学と技術は 地球と共に生きる効果便益がなければ
何の意味も価値も示せないだろう。
やっと宗教と科学の乖離が融合に向かうしか路がない状況を人類は賦与されたと
腹を括って 思考と感情を正しく鍛えて 脳力を存分に開花させる教育が
不可欠になるだろう。人間の超能力を誰かの権力を維持するためだったり
つまらない贅沢と浪費を「カネ」で保証する為にでなく
人が人を仕合せにするためだけでなく 更にはこの星・地球に益する
為に 人間の超能力を使わなければならない時代が来るということだ。

なぁあんつう テーゼを使って どなたか私と漫画かアニメの原作を拵えませんか?
異星人と戦うとか 宇宙怪物を捕獲し合うとか
その手は全く使わないドラマツルギーに徹したいわけです。
なんとかバトルとか宝探しとか ありふれていて 私は飽き飽きしています。
まぁ そりゃ 危機クライシスが無いと盛り上がらないのは分りますけど
そんなもんは 上記のテーゼをすりゃあ必要ないと思っています。
だって そのテーゼで物語できなければ 地球諸共人類は
滅びるという切実な危機が 現実にもあるのだから これ以上
彗星ニビルの衝突やらニビル星からの悪魔の使いと超能力者たちの
壮絶な戦いなんざ どうでも良いわけです。
寧ろ 超能力を如何に自己の独善から解放させる相克のドラマの方が大切なことを
漫画なりアニメで示した方が 光りを愛する者たちの一派としては
推し進めなければならないと思う次第であります。
つまりそれは同時に
光りを与える者たちの一派・イルミナティとの決定的な違いを明らかにする。
私が書きつけたテーゼには その意図も含まれているのだと告白しておきましょう。

太陽は決して消えない。
ただ地球と人類が互いに愛し合えるかを試している。
そのためには 人類が大いに和する魂に自分の魂をどれほど活用しきれるかです。
地上に在る間に持ている(眠っている)脳力を 地球と人類が互いに愛し合う目的に
どれだけ寄与すべきかに掛かっているとすれば 其処に新しい哲学が生まれます。
いや 寧ろ法華経が 本当の意味で 衆生に説かれることになるでしょう。

前のブログ記事にも書きましたが タルコフスキーの『鏡』という映画が
数十年前から私に開示していたのは このことだったのだと
そのサゼスション(暗示)を 漸く 光りとして認識したところ、なのです。


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テレビドラマをサブカル・視座から眺める [試論]

Deagostini Blue Note best Jazz Collection7
『Lee Morgan』

The Sidewinder
Candy
I Remember Clifford
Somethin' Cute
Cornbread
以上の曲を聴きながら 書いております。

昨日のような自分でも理解できていないことを
書き連ねるのは よろしくない。
で 今日は下世話に。
『spec』というドラマについて。
加瀬亮は 『アウトレイジ』の小利口なヤクザ役も出色で
その坊主っくりも見物(みもの)だったし
私の姪っ子に似ている戸田恵梨華が 余りにもぶっこわされてるのが
心配でハラハラするのは 妙なことだが気になるので
観ていたのだが 忘れたころに なんだか又やっていた。
超能力者をspecholderと言い換えただけのことだが
どうしてあれでけの超能力を保持している者を凡人の集まりが
一か所に収容可能なんだろうか?相当な薬物投与が必要だろうに
それはテレビでは無理からぬ表現になるのでやらないし
それだとご都合主義のドラマは一向に動きやがらないのだろう。
だいたい超能力者を凡人なり更に凄い超能力を保持するものが
統べるだの囲うだの 全く凡庸な我利我利亡者になりさがって
まるでマフィアやヤクザが アンダーグラウンドを支配したら
次はアッパーだぜぇと 了見を弁えない 上部構造下部構造を
低能が持ち出すとああなる・・・というつまらんドラマになるのは必然である。
超能力者を勢ぞろいさせて全くその脳力だかspecだかを表現しえなかった
映画を企画プロデュースした私が ケチをつけるのはおこがましいのかもしれないが
しかしそんなもの映像表現したところで
タルコフスキーの『鏡』のチラリホラリと出てくる超能力表現の方が
やっぱり私は上質だと思うのだ。思えば『鏡』は超能力者=specholderの哀しみを
底流に敷いていたなぁと思い返す。あのタルコフスキーの自伝的な映画は
自伝的とかアンチ・スターリンを装いながらも なぜだか
「人類よ 脳力をもっと自分で使いこなしなさい」という
メッセージが 隠されていたような気がしてならない。
タルコフスキーは 確か 知能指数が高すぎて隔離教育されていた少年時代が
あったと記憶している。ソ連はspecholderを立派な武器と考えていたから。
だが凡人がspecholderを隔離すると ソ連崩壊のような出来事が
起こるので アジアの資本主義的共産党国家は 獰猛な仕打ちをしていそうだ。

日本は平和で良い国だ。大国主義を求めなくなると 地震も津波もなんのその
テレームの僧院すら建設可能だ・・・。

昨夜から始まった草彅剛の能面クラートシリーズ、もとい「僕の生きる道」シリーズが
久しぶりにドラマツルギーとしてゴツゴツと手応えありで 
刑事モノとか猟奇モノしかないドラマの中で 出色かと。
サラリーマンを辞めて 折角医者になったのに研修医開始早々に
サラリーマンではできない 組織至上主義でない生き方を求めたにも関わらず
大学の総合病院なる組織至上主義の壁にぶちあたり 自分の勇気を試される
というような スライスオブライフ 日常誰しも体験したり 目の当たりにした
リアリティ(切実さ)に 共感が多く集まるだろう。
勿論設定は 非現実的非日常的でもある。だが 出してきたシーンは
日常的だった。但し それは 橋田や内館のやる 女ならではの
残酷な日常性もっと悪く言えば女性週刊誌しか読まない女性の脳みそにピッタリする
シナリオには 無い 日常の切り取り(スライスオブライフ)方ということだ。
向田邦子のシナリオが 決して女性週刊誌的なシリアス リアリティに陥らずに
男性でも身につまされるような切実な問題を次から次へと描いた手腕は
そうそう出てくるものではないだろうが
ツヨポンドラマで 向田係累が 誕生しそうな気配がしている。
向田邦子のドラマは デフォルメもせず 等身大に正確に写す鏡になっていた。
等身大の恥ずかしさ 等身大の反省 自分だったらどうしよう・・・が視聴者に伝わる
可能性がある。その作用を 私はある種の功徳だと思う。 一方、
橋田とか内館のドラマは 醜い他人の姿を映した鏡を人々に見せつけては
あんたのが まだマシよぉ で終わる。余計なお節介とはそういうものだと私は思うのだが。

アンネフランクが 母親から悲惨な同胞ユダヤ人の様子を綴る新聞を見せられ
「私たちは この人達より 幸せだわ 神様に感謝しなくっちゃね」と
祈りを強要されるのに腹を立てるというくだりを覚えている方も多いと思うが
向田邦子には アンネフランクのような気丈さがあるのである。
後者二方には アンネフランクの母親程度の感情教育しか期待できないのだ。
 哀しいかな視聴率を稼ぐのは 今のところ 後者係累であるということだ。

テレビドラマというサブカルチャーを通して日本人の意識の程度を鑑みることも
可能性としてあるかもしれないと こんな文章を書いておきながら
図々しく 思う次第を できれば お許しくださいませ。


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花に嵐を喩えれば [試論]

● 花水面(はなみなも)
  疾く風も無し
  魚の影

● 花散疾風(はなちらし)
  せめて月下に
  散りぬるを

土曜の夜皇居の堀端で詠んだのではなく
今日 偶々見かけた花の下で
池の鯉を見かけた時に発句を試みたまで。

さて。
小説は 思考実験の側面もある。ゆえに
ときどき 数学的な問題に 脳を使うことにしている。
勿論 数学者のように数式で試論を展開する必要を持たない。
ただ 我がシナプスが 発光するかしないか それが求めるところ。
答えの出し用の無い問題に それでも自分の脳が
どう反応しうるのかを 試す、実験する。
脳トレは それはそれで良いのだが ゲームになりすぎて
興奮してしまう。それは シナプスの発光よりも
血圧の問題になるような気がしてならないのである。

で ユーグリッドの「次元」の定義からポアンカレの
「次元」の定義を 並べてみる。
ちなみに デカルトの「次元」の定義は
『次元とは 1点の位置を決めるのに必要な数値の個数』とある。
これは頭の中で柔軟な方眼紙を描かなくてはどうにもならない。
アインシュタインの特殊相対性理論を理解するには
この定義が 大切になるそうだが まぁ 此処では捨象しよう。

ユーグリッドは
立体の端は 面である。3次元から2次元 立体から面
面の端は 線である。2次元から1次元 面から線
線の端は 点である。1次元から0次元 線から点
古代は よって 3次元しか無い!で思考を停止した。
ところが 20世紀になるとポアンカレは
端が0次元(点)になるものを1次元(線)と呼ぶ。
端が1次元(線)になるものを2次元(面)と呼ぶ。
端が2次元(面)になるものを3次元(立体)と呼ぶ。
端が3次元(立体)になるものを4次元(超立体?)と呼ぶ。

なぁんだユーグリッドをさかさまにしただけじゃん
コロンブスの卵・・いやだからこそ偉大なんだった。
この顛倒から 多次元への目覚めが人類に起こった。
スターウォーズも生まれなかった。
宇宙物理学も顕微鏡よりもこれがなかったら 相対性理論どころじゃなかった。
原爆も原子力発電もなかったかもしれないので
人類にとってどっちがよかったか。でもね 70億人まで増えたし。

超立体ねぇ 人間の脳ってのは 活動している時に
超立体になっているんじゃないかなぁ と全く非科学的、非数学的な
物思いに耽ったりする。
免疫にも 超立体的な世界が 繰り広げられていると なんとなく思う。
超 というと とてつもなく大きな感じを思い描く。
しかし 寧ろ 超ミクロという事かもしれない と感じる。
免疫は 細菌と人体の共生関係にある。
腸のペプチドと脳のペプチドが 血液や体液を媒介にして
交信しているかどうか 判らない。だが自律神経は 腸だけでも脳だけでも
調整は行われていない。などなど 別段SFを書くためにしているのでなく
ミクロコスモスなる人間とマクロコスモスたる大宇宙に
繋ぐ 超立体とは なんのか それを「愛」としたらば
何を書くべきかを 私自身が納得できるような そんな気がするので
愚かしい思考実験を 試みることも 私には無駄でないと信じている。
そんな脳のつかいかたをしていると 詩が書きたくなる。
跳躍を欲する余り 柳に飛びつくカエルになるのである。
いや 天使になろうとして豚になっているだけかもしれない。


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そもそも戦略を欠いて書いたりするならば [試論]

吉本隆明が『共同幻想論』『言葉にとって美とは何か』を物にし
さぁ好敵手は と思い定めし三島由紀夫といえば 折角
『豊饒の海』奔馬篇と暁の寺篇によって三島の仮想敵国的存在だった
谷崎を追い詰めたのに 子息を開成中学に入学させてホッとしたか 天人五衰篇で
やっぱり谷崎の道楽至芸に擦り寄りかけ いちゃもんや三度笠も
さにあらんとしていたろうに 三島がハラキリ前夜で締めくくった豊饒の海は
見事に自己表出を完遂させていたが 果たして たかだか知的放蕩息子が 天と地を繋ぐ龍に
なりやがってと 吉本は気が抜け、
シェーッだとかレレレのレーオデカケデスカ それでいいのだ!と
世間が吉本隆明の落胆を一顧だにしないのを 返す刀で
いざよ サブカルと両断したあたりの書物を 私は実のところ読んでいない。

ゴダールが映画監督になる前にした評論は上記のような文法的にも
破綻寸前のスレスレ感を上滑りするのを芸風とする戦略で書かれている。
誉めているのだか貶しているのだか読み手に伝わらないように書く。
そういう評論的な評論をスイスの銀行家の御曹司は映画監督をする為に
大人たちや大人たちにまんまと飼いならされる事を
出世コースとする同世代に喧嘩をふっかける態を 敢えて為した。
この戦略をまんまと我が国の文芸評論と映画評論に持ち込んだのが
渡辺一夫著作集の巻冊子雑文上で「H君は フランスに留学しても
映画ばかり観ているらしい。少し心配だ」と登場するあの先生です。

なんで私はこんな文章の書き方をしてしまうかというと
それは 土曜の深夜にEテレでオンエアしていた現在30代の各分野が
気鋭の何某たちが 我が国の再生だかをテーマにして侃々諤々・・・・
とまではいかないがそれはそれで真摯で 朝までナントカのような
扇情司会者もいないし 言葉遣いも妙に丁寧で聴きやすいので
総じて面白く 久しぶりに安堵感を覚えたりもしたので
別にいちいちの発言にいちいち反応したりする手間も無い。
ただ 冒頭の吉本と三島を引き合いに出したのは
吉本のサブカルという表層から世代の本性を鷲掴みにしていく
至芸は そも『共同幻想論』などの面倒な思考錯誤の土台が
モノを言って成立していたのだと私は思っている。
つまり 
詩人の感情による跳躍と物理学者や数学者の感情による跳躍が
酷似していることを 忘れないでほしいと思うのだ。
吉本以降に生きるという点でいえば 私よりも20歳若い彼らも
同じなのだから。吉本隆明は何も団塊の世代を下支えしたりもしていないし
先ごろ亡くなられたから 今しもレトロスペクティブを強要する意図などもさらさらない。

マイケル・サンデルの講義が面白いのは
古代人であるソクラテスやプラトンの弁証法を現代のローマ帝国である
アメリカ合衆国で相も変わらず学際的な形象を成立させているからだが
しかしモンテーニュが書斎兼寝室の天井や梁や壁に
古代人の箴言をわざわざ彫琢させて それを眺めては
アウフーベンしていたという図柄を 現代人は思い起こすべきだとも思うのだ。
なぜなら そこから思考実験は生まれたからだ。
モンテーニュの後に生まれたデカルトやパスカルが『エセー』を
超えるのに 古代人の箴言を土台にして詩人の感情による跳躍に
対抗すべきところを 数学にしてしまう辺りで ある種の敗北は決定的になるのである。
そしてデカルトもパスカルも平穏無事な独身者で生涯を終えられたのだ。
一方でミシェル・ド・モンテーニュは 2度もボルドー市長を務めた。
その際 時世は宗教戦争とフランスの王位継承権問題が絡まり合い その上
おそらく現在のような太陽活動の変調に応じた異常気象で
人心はますます絶望を色為し、ペストが追い打ちを掛けていたが
医学はせいぜい悪血を蛭に吸い取らせる程度だった時代に
呑気で陽気な金持ち領主のお坊ちゃんが 晩年を果敢に一族郎党引き連れて
王位継承問題と宗教戦争問題の手打ちに持ち込む政治家役を全うするのと
余りにも対照的だったことも 念頭にしておきたいものだ。
モンテーニュの『エセー』は肩凝らずに紐解ける。
しかしデカルトの『方法序説』やパスカルの『パンセ』は睡魔との闘いを伴う。
勿論『エセー』には 殆ど晩年期に彼を襲った時代の不幸について
長々と回顧など書き加えれていないし 民主主義が人類にとって
最も好ましいなどという認識もない。フランス革命は遥か後代の出来事だ。
しかし 現代の人類が 太陽の黒点活動の異変期にある点では
とても 近似値が普遍性を以て了解できる事を 勧めておきたいと思った。

番組終了間際に 懸命に彼らが「ポジ出し」と称して
纏めようとしていた姿に 不謹慎にも 笑っていた。
まず 私にとって「ネガ出し」という用語は20代にあって
ルーティンワークに頻繁していたからである。
テレビCМは納品までフィルムだったのだ。エマルジョンの甘酸っぱい匂いが
うらぶれていて ネガ編集技術者とフィルムのフッテージナンバーを確認しながら
原板ネガを擦る手元は 如何せん淫靡だった。秘かな愉しみは決まって
深夜に作業は行われ 0号試写まで現像所で寝起きすることもあった。そんな時は合間に
映画館に出かけたり ポルノ映画の修正前版を現像所の試写室で見物したりしていた。
流石 ネガとポジの差異だなぁ などと笑ってしまった。
まぁ テレビ東京の『日高レポート』だとディスカッションの後に
必ずサマリーを箇条書きにしてやってるもんなぁ と 何処までも
テレ朝の怒号ばかりで 弁証法にならん番組よりも遥かに生真面目なのが 好ましかったが     それにしても 討論になると人は早口になるのだろうか?腹式呼吸という鍛錬は何人にも日頃のたしなみとすべきなのだろうと 人のふり見て我がふり直さんと思うのであった。

うたた寝をすることなく 日の丸と君が代をテレビ画面で観るまで
テレビの電源を切らなかったのは 何年ぶりだろう。

そして そもそも戦略を欠いて書いてしまうと こうなるのであった。


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