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中学生円山について書いてみる [映画 ]

そりゃあ『リアル』の方が観ていて愉しかった。
80年代に現れた映画オタクの一人としてはね。
しかも『中学生円山』はクドカン氏の脚本監督だから
笑える事請け合い・・・とはいかなかったのである。
いや笑える部分は幾らでも在るのだが
サンデル教授の白熱教室連続講義3時間だか5時間でも
結論には至ることのなかったテーマを軸に据えていて
観終わってポカンとするばかりだった。

正義とは何か? ルールとは何かなら自己防衛と応えられる。
だが 正義とは何かは 中学生どころか五十年生きてきても
サッパリ正解に辿り着けない。この世の善悪の彼岸は
神の存在に行きついて 映画的命題なのかどうか手を焼く。
思考停止という台詞が出てくるのも 脚本を書いているご本人が
迷宮を彷徨った証拠のようなものである。
モンテーニュの『エセー』を読み直さないとならないなと
映画館の暗闇から出てくると私などは想うのであった。
井上陽水は歌う。「僕たちは生まれつき悩み上手にできている。
暗闇で涙ながらに映画まで眺めてる」 正にその通り。

題名からして私のようなヌーヴェルヴァーグ命の者は
トリュフォーの『あこがれ』や『大人は判ってくれない』を
期待しつつも まぁクドカンだから相米慎二の『とんだカップル』や
『台風クラブ』に近い、とはいえ流石にアンゲロプロス的な
相米のワンシーンワッカトが観られるかもしれないという
微かな期待を抱くのも禁じ得ないのであった。
だがそれは 期待する方が愚かなのである。黒澤清氏が
この脚本で監督したらひょっとするとひょっとしたかもしれないけれど。


草彅剛氏は好演していた。中学生の妄想力を肯定する映画だが
この草彅氏が演じる謎の男が余りにも劇的な背景を持ち
余りにも壮絶な最期を遂げるのだが 中学生の妄想力に付き合って
幼いわが子を大五郎カットにした挙句 その我が子にトンデモナイ人生を
オムツをしている頃から背負わせることになる。重すぎる結末だが
これをブラックユーモアとして 単なる映画っすよで誤魔化されると
多くの人は かなり悪い感情教育を為されてしまうことになる。
脚本的には どうなんだろう?『カラマーゾフの兄弟』の
次男イワンの「何でも許される」が陽気なブラックユーモアにはならず
ドストエフスキーは その収拾ができずに困惑することになった。

 

 西山洋市監督が 円朝という稀代の物語作家の真景累が淵に行きつく。
因果応報輪廻転生南無阿弥陀仏の世界は 円朝が物語作家として
お彼岸お盆興行仕様のプロデューサー感覚で編み出した近松の
女油地獄みたような作品だ。とはいえ円朝は
何せ『文七元結』なんて噺を客から御題を貰って即興で造る人だから
幾らでも物語のパターンを頭に入れていて
しかもそのパターンを多様に組み合わせる特異な能力に恵まれていた。
高僧のお経解題すら円朝の頭には物語のパターンとして分析されていたかもしれない。
宮藤官九郎監督も西山監督と同様に三遊亭円朝に魅せられているのかもしれない。
・・・・と、五十男が中学生クラスの妄想を書いてみる。

中学時代なら誰でもが持つ愚かな妄想力を軽々と描く映画であっても良かったかな?
それじゃあ映画にならないよと大人たちは 言っただろうね。
若き日の小津安二郎は芥川の侏儒の言葉を冒頭に引用しながら
『生まれてはきたけれど』という少年たちのやるせなさを見事に描いた。
後年のオーギュスト・ルノワールの絵画という達観に至るまでに
『風の中の牝鳥』で作品的にも興行的にも失敗する曲折があった。
若き日の有馬稲子の美しさに引きずられて『東京暮色』という
ルノワール絵画的でない作品に戻ることもあった。
時代の風潮に映画監督はどうしても過敏にならざるをえないのだ。
若き日の小津作品はどれもこれも暗澹たる噺ばかりだったのだから。

さぁ 映画の中の女子中学生が投げかけた重たい命題に応えてみよう。
すぐさま思いつくのは チャップリンの『独裁者』では
「一人を殺せば罪人、だが戦争で見ず知らずの人間を大量に殺せば英雄」
という反戦論であったが これは寧ろ迷妄を引き起こすだけだろう。
サンデル教授に頼らずに云えば
滅びる寸前の種は 動物であろうと癌細胞であろうと植物であろうと
「共食い」又は「共に殺し合う」のがこの星における一般原理である。
だから 法律とか戒律とかでこの地球という惑星から
絶滅指定種にカウントされないように 我々は振る舞うのである。
ただ 幾ら我々がその振る舞いに上記の理屈を見出してしようにも
たとえば太陽フレアの異常な磁気嵐で我々人類の脳内の神経伝達系統が
種の防備たるタガが外されてしまう外部要因が起きているとすると
どうなることやら。知性など、モラルなど いずれにせよ微弱な電流の一つに過ぎなくなるかもしれない。
だが私が今できる回答は せいぜい上記の絶滅指定種にならぬために
共食い状態を避けようとしているのだ。
勿論 世界金融市場や法律家による資本主義の強欲者・グリード達の
富の再分配拒否は 殺人の如く裁かれることはないのだから
説得力のない脆弱な回答であることも私は自覚している。

追記:遠藤賢司氏が 唐沢寿明が演じたあのエンドウケンジでなく
本物が 認知症老人役で颯爽としているのは秀逸である。
しかもヘビメタまで披露する辺りは クドカンの趣味の良さだ。
にしても 中間テスト休みで観に来ていた十代の少年少女でさえ
大五郎カットの赤ん坊に圧し掛かった重すぎる運命を勝手に想像妄想して
身震いしておったぞなもし。

水鉄砲つながり・・・で嗤うにしろ引き攣る。

真っ当な感受性の持ち主ほど引き攣ると思う。
だが真っ当な感受性の非力さとか其処に真っ当を自己採点する
思い上がりってのに 更に重ねて背筋がゾッとするのだ!

 

 

 


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